「OTAKUエリート」を出版してみてどうだったのか、前回からの続きです。
書きながら何を学んだのか?
本を書くというのは、つまるところ大きな作文です。たったそれだけのことだけど…子供のころから国語が苦手で、小学校の夏休みの読書感想文で2枚の原稿用紙埋めるのに一週間以上かかってたのが自分です。本を書くという作文をすることで強制的に色々考えさせられ、同時に色々学ぶことになりました・・
「本は商品」
「書きたいものを書くのか、世の中で求められているものを書くのか」という葛藤はよく聞く話です。小説や漫画などの創作物でも、自己表現したい原作者の意向と売上を増やしたい出版社の意向が食い違うなんて話はよく聞きます。
この葛藤の中で、「OTAKUエリート」のような社会論・世代論ジャンルの商業出版では、「世の中で求められているものを書く」は葛藤以前に「前提」となります。これについて色々な意見はあれど、現実問題として出版社が欲しいのは良書ではなくベストセラーです。
極め付けはタイトルです。
本のタイトルは「OTAKUエリート」、副題は「2020年にはアキバカルチャーがビジネス常識になる」ですが・・・実のところを言うと副題については微妙な気分です。表紙デザイン含め、装丁が今の形になったのは出版社の意向です。良著を書きたい自分の要望と、売り上げを伸ばしたい出版社の要望を合わせると、装丁を出版社にお任せするのは良い落としどころだったと思います。「本は商品」という視点から、一つの割り切りをしたわけです。
その割り切りの結果…「OTAKUエリート」の装丁や副題は、実は当のオタクやアキバカルチャーに詳しい人には評判良くなかったです。でもそういう批判に甘んじても、今の装丁によって「オタクではないビジネスパーソン」に書店で手に取ってもらえたのであれば、それも良きかなと思います。実際どうだったかは知る由もありませんが、ここはそうなると踏んだ出版社を信じようと思います。
「書きながら考える」
実際に原稿を書いたのは、2014年の1~5月です。でも実際に出版されたのは2016年の1月です。この1年半の間にライターさんがつくことになり、そのライターさんが原稿をリライトしていました。そもそもなぜライターさんがつくことになったのかというと…単純に自分の文章力が足りなかったからです。というか、最初の原稿が「固すぎて分かりにくい」ということでした。中学生で日本の国語教育から離れて以来、日本語で大きな作文といえば研究論文しか書いてなかったツケです…
ここで一番考えたことは、ライターさんとの意識合わせでした。自分が書いた原稿で意図もちゃんと伝わるのであれば、そもそもライターさんが要りません。それが伝わらないからライターさんが必要なのですが、ライターさんに原稿の意図を伝えるのに苦労しました。
その結果、「ビジネス書」になったり、「海外でアキバカルチャーの売上を高める指南書」になったり、最終的には元の世代論に戻ったり色々迷走した結果、1年半もたってしまいました。でも、最終的には良い原稿ができあがり、Iさんの後任のAさんも満足するものになりました。
文の意味は伝わりますが、文の意図を伝えるのはもうひと努力必要でした・・・
「文の意図を伝える」という行動は、実は文章を書く人自身にも向かっていると感じました。
具体的には、外国人の「OTAKU」が日本国内の「オタク」と同一視されるなどの理由で誤解されている件、それ故にOTAKUを巡る政策や企業方針が的を得ないものになっている点、「アキバカルチャー」を巡る、日本人と外国人の認識の差などです。これらの問題は自分の中でも言葉の意味としては分かっていたことです。でも、それを本の執筆という場で人に伝わるように文章に書きだして初めて、人に伝えられるようになりました。つまり、本の執筆という大きな作文を通じて、物事を「自分にも伝えられるようになった」ことになります。これが「言葉で知っている・意味を伝えられる」と、「本当に理解している・意図を伝えられる」の差ではないでしょうか。
という感想でした。